スポーツアジェンダ

TAJIRI

大学生からプロレスラーになった男

1970年、熊本に田尻 義博ことTAJIRIが生まれた。

幼いころからプロレスにみせられていた田尻であったが、大学に進学をするという道を当初はみせていた。

ところが、それでもプロレスをあきらめられなかった彼はあのアニマル浜口が主宰するジムに参戦した。


しかし、彼がデビューした1994年はプロレス界全体にまだガチンコ風の試合「ストロングスタイル」が幅を利かせていたこともありTAJIRIはそこからあぶれることとなった。
日本を見捨てた彼はメキシコに行くこととなった。

これが彼の運命の岐路に立つきっかけとなった。



日本よりも世界を選んだ男

メキシコの伝統あるルチャリブレの団体「CMLL」に参加した彼はそこで、日本以外のプロレスをみた。

ルチャは日本のプロレスのようにヘビー級がメインではなく、軽量級や身長の低いレスラーでも活躍する世界だった。
彼はメキシコで学んだことを胸に1997年には日本に戻ってきた。

しかし、やはり彼には日本よりも世界のがあっていたのか1998年にはポール・ヘイマンというプロデューサーに誘われてアメリカ第三の団体であったECWに移籍したのだった。

彼は日本ではなく世界を選んだのだ。



狂った団体ECW

TAJIRIの入ったECWは一種のカルト教団のような団体だった。

打合せがあるプロレスの世界では珍しく、「今日の試合はくそだからみんなで椅子を投げ込んで暴れよう」という話になり客に向かって椅子を投げ込むことを要求したり、日本式のプロレスからルチャ形式の試合まで、はたまた武器を平気で使うハードコアレスリングまでなんどもありだったのだ。


そんなECWのメインイベンターはサンドマンというこれまた異色のレスラー。

何とリングの上で竹刀を持って暴れまわる飲酒喫煙は当たり前の文字通りの不良・邪道レスラーだったのだ。

このサンドマンは大仁田厚に大きな影響を与えたことでも有名だ。

そんな異色な団体でもTAJIRIは順応し主力選手の一人として活躍した。

だが、そんなECWも2001年には崩壊・解散という最期を迎えたのだった。



世界最高の団体へ

やがて、ECWはWWFに買収されていった。

買収先でうまく才能が出なかったレスラーは多くいたが、彼は違った。

むしろその才能をより先鋭化させたのだ。

当時軽量級の選手を多く入れていたWWFの中で彼は華々しい活躍をみせていた。

さらに、ウィリアム・リーガルという相棒を手にするとその活躍はさらに際立って行った。
v 英語がしゃべれないキャラを演じているTAJIRIと生真面目なイギリス人のリーガルの凸凹コンビは全米の茶の間を笑いに包んだ。


それまではシリアスな悪役が多かった日本人の中でも珍しく三枚目を演じることができた。

こうして、彼は一時あのイチロー以上に有名な日本人となった。


やがて、2005年には日本公演ではタッグ王座を獲得するなど、それまでの日本人選手とは大きな違いをみせていた。
だが、そんな彼に大きな転機がおきた。
2005年、ECWからの仲であったエディ・ゲレロが急死した。

このことはTAJIRIに大きな心の傷を植え込んだ。

彼も同年の12月に退団を決意した。

さらに、当時としては破格の扱いであった退団試合が組まれた。

対戦相手は友人であったグレゴリー・ヘルムズ。

善戦するものの、敗れてしまった。

負けたTAJIRIは起き上がると初めて英語をしゃべった。

「 アメリカのみなさん、応援ありがとうございました。僕は日本に帰ります。アメリカ大好き!グッバイ!」

TAJIRIの目から涙が落ちていた。

やがて、日本に帰ってきた彼だったがECW・WWEほどの活躍をみせることはなかった。

多くの団体を作ったのはいいが、運営が下手で潰れてしまった。
彼は選手としては才能はあったが、管理職としてはイマイチだったのかもしれない。

そんな彼は現在、全日本プロレスで活躍する傍ら『プロレスラーは観客に何を見せているのか』や『プロレス深夜特急 プロレスラーは世界をめぐる旅芸人』といった書籍を発表し、文筆家としてその才能をみせている。