グレートアントニオ
怪力男アントニオ
1925年この世にユーゴスラビアに生まれたアントニオ。そんな彼は1945年、20歳のころに祖国を捨て、カナダに移住をした。
彼は身長193㎝体重160㎏という巨体を持っていた。
当然その巨体にふさわしい怪力をもちあわせていたアントニオは1952年にはギネス記録に残るほどの活躍をしたことがあった。
その怪力自慢というのが233トンの列車を19mほど引っ張るというものであったといわれている。
そんな彼はやがて、プロレスの世界へと誘われていくようになった。
しかし、このアントニオはかなりの『問題児』であったといわれている。
1度目の制裁
やがて、アントニオはカナダを代表するレスラーとして名高い名声を勝ち取っていった。1961年になると当時日本プロレスのスカウトを兼ねていたグレート東郷に誘われ『第3回ワールド大リーグ戦』に参戦することとなった。
当時の日本プロレスのメインイベンターを務めていたのはあの力道山であった。
来日当初からバスを引っ張ったり、空港で大暴れをしたり派手なプロモーションで注目を浴びた彼はすぐさまこの興行のメイン選手としてみなされるようになった。
だが、アントニオには悪いところがあった。
それは傲慢すぎたのだ。
どれだけ派手にやろうとも、それはプロレスの舞台の上ならば許してくれるが、リングの外では紳士たりえないといけない。
それを無視したアントニオは他の外人レスラーを格下扱いし、力道山に自身のギャラをあげろとせまるなど少し常識では考えられない行動を多くとった。
それを許せない男たちがいた。
かつて日本で「プロレスの神様」といわれたカール・ゴッチを筆頭にした外人レスラーたちだった。
当時は今ほどコンプライアンスが徹底されていなかったプロレス業界で、アントニオは「怒らせてはいけない先輩」を怒らせてしまったのだ。
ゴッチはアントニオの試合の最中に本気の顔面パンチを数発アントニオの顔面にいれた。
アントニオはこの時恐怖で震え上がった。
試合そのものは引き分けで終わったが、これで終わりではなかった。
控室で複数の外人レスラーたちが囲むとアントニオは一気にリンチになり大けがをおった。
それでも試合ができれば推されるのがプロレスの世界であるが、彼はてんで役に立たなかった。
やがて、トーナメントの最中にもかかわらずアントニオはカナダに帰国することとなった。
二度目の制裁
これで懲りればいいものを、このアントニオは懲りなかった。時は流れ、1977年。
日本プロレスはつぶれ、新日本プロレスが生まれた。
当時、新日本の代表であったアントニオ猪木は16年ぶりの来日のためにアントニオを呼んだのだった。
もう50過ぎだし多少こりて性格も落ち着いただろうと、多くの関係者は思っていたのだろう。
だが、アントニオはまだ奇人変人のままだった。
まず風呂に入らなかった。
この風呂に入らない奇行のせいで常に臭く、一緒に試合をしたがる選手はいなかった。
またその性格も変わらなかった。
当時、他の外人レスラーに喧嘩を売ったり部屋では寝ずにロビーで寝るなど奇行の限りを尽くした。
そして口を開けば「俺の試合には天皇を呼べ」など大口を連発した。
おまけに「アントニオ猪木のアントニオは俺をオマージュしている」と言い張った。
これにはさすがにアントニオ猪木も怒りを覚えた。
そして、アントニオは猪木と試合を組むこととなった。
ここで当初アントニオは猪木を小僧扱いし、技をろくに受けないなどなめた言動を多くとった。
とうとう猪木の我慢の限界が訪れると、アントニオの膝にタックルを決め地面に倒すと顔面を複数回蹴り上げ始めた。
アントニオの頭からはおびただしい血が流れ地面に崩れた。
これを最後にアントニオは二度と日本にくることはなかった。
プロレスは興行であるが、なめすぎるといけない。
それをアントニオはわかることはなかったのだ。
カナダの英雄
その後、長い間アントニオは世に出ることはなかった。そして、2003年77歳でアントニオはこの世を去った。
だが、日本ではただの奇人だったアントニオもカナダでは人気者であったようだ。
彼の死後、遺品を回収した業者によると彼の遺品にはアメリカ大統領を務めたクリントン氏直筆の手紙やマイケル・ジャクソンやモハメド・アリといった数多くのセレブととった写真などがあったのだ。
日本ではその傲慢さがきっかけで多くの人から恨みを買った彼であったが、その傲慢な性格がゆえにセレブとも付き合いがあるほど華々しい活躍をみせていたようだ。
彼の死後、複数のバンドが彼の人生にちなんだ曲を発表、児童作家が彼を題材にした絵本「Le Grand Antonio 」を発表するなどカナダではその存在は大きな影響力があったようだ。
ちなみにカナダでも彼の大口たたきっぷりは相変わらずで「熊と相撲をして勝った」「俺は宇宙意思から声を受けている」と語っていたが、非常におだやかで気さくなカナダ人は彼の大口を愛溢れる法螺ととらえ好感を持っていたようだ。
しかし、結局彼は本当に頭がおかしいだけの奇人であったのか彼なりのプロレスラーとしてのプライドであったのか、理解する人間はほとんどいなかったようだ。
未だに謎の多いアントニオ、彼は一体本当はどういう人だったのかわかる人はまだいない。